『粕谷幸司の自由なコラム』20(最終回)
ネガティブはどこかに忘れ去られることもなく、孤独とともにいつもここにいる。
Podcastだのtwitterだのには、意図して“出さない”ようにしているけれど、結局、僕はほとんど毎日のように「死にたぁ~い」と思い(時には呟き)ながら日々を過ごしている。
大体、嫌なことなんて自分の力では(今のところ)どうにも出来ないもんで、けれど人を責め立てたって負の連鎖を生み出し続けるだけだし、頑張れるだけ頑張り続けながら駄目なのは自分であり足りないのは自分の能力(運とかも含めて)なんだ、と自分を追い込み続けていくしかないって思ってるしそうなってる。
唯一の支え、生きる気力の根源は、夢を追う力だった。
掴み取れるか、辿り着けるかわからないけれど、まぶしく輝き続けているその夢という未来にだけ向かって走っていれば、それが生きる意味だった。生きてることに意味があった。
けれど、僕の人生での挫折はそんな夢の光が見られなくなった時に。
むか~し、中澤さんや平居さんに「それ(声優・役者)が無かったら本当に何もないよね」って話をしたことがあったっけ。
特にこの、相方の2人は、人生で(いろいろ寄り道とかしながらだけど)ずっと“それ”しかしなくて“それ”だけして生きてきた人たちだから、例えばで言うとアルバイトはしてきただろうけれど普通の会社員なんて絶対に無理だろうなって思ったりした。
僕は…半端でさ。ちゃんとしてるっちゃあちゃんとしてるんだけど、大学卒業して、就職活動も頑張って、新卒採用じゃないにしても会社員になって、なんやかんやしてきたけれど。
いま振り返って苦しいのは、いろんなこと出来るとしても2人みたいな“それ”が無いんだよね。だからもう、生きているのが苦しくて、どうにもならない。
欲張りだったな。欲しいものはたくさんあった。
けれどふと泣けてくるのは。
“それしかない”ってものを捨ててしまったこと。
しがみつけなかった。
これまで19回のコラムで、いつも意識してきた終わり方は「どこかに救いを」だった。
絶望だけを残したページにしないこと。読んでくれる人に、少しでも、どんな角度からでも前を見てもらえること。それを僕の言葉で、残せたら良いなって思って書いてきた。
けれど、どんだけ格好いい言葉で整えても、自分を騙すことは出来ないし、隠していれば見えてなくても、本当の思いは伝わっているんだろうと思うんだ。
だから、真剣に向き合って、最終回には書き残す。
生きてりゃ、本当に苦しいことも嫌になることも、死にたいなあと思う時だってある。
なるべくそんなふうに生きたくない。
けれど、誰かに迷惑をかけまくってでも自分だけ楽しく幸せに、なんてなれやしない。
だからやっぱり駄目なのは自分。
うまくいかないことだらけだよ。
だって、生きてるんだもん。
それでも、生きてるんだもん。
だけれど、生きてるから。
楽しさに、幸せに、すがるしかないよ。
死にたいけど死ねないまま生き続けるなんて本当に地獄だ。
生きたいけど生きられないで死んでいく人もいる。
出来るならこの命と交換したいくらいよ。
けれど、生きている人が、生きている。
生きている人のために、生きている。
生きるために生きているんだから、生きたいと思える生きかたをした方が、きっと良い。
テレビでも映画でも恋愛でも何でもいい。
何でもいいから「ああ生きてて良かった」って思いながら、生きていきたい。
それじゃあね。
また、別の世界で。