自分を信じては疑って

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『粕谷幸司の自由なコラム』03

 積み重ねてきたものを、アッという間に崩してしまうことは嫌だ。
 丁寧に築き上げてきたものを、一瞬で壊してしまうことは恐ろしい。
 だからこそ僕は、いつもいつも考える。同じことでも、何度でも考えたりする。

 物語をつくるためには、あらゆることが「タネ」であって、目に見えるもの、聞こえるもの感じるもの色んなものを、すべて自分の中に入れることが大切だと思ったりしてきた。
 祖父の葬儀の時も、どこかでカメラを構えたい衝動を持った自分がいた。親族の葬儀なんて、そうそうあるものじゃないし、想像では追いつかない現実がそこにあるから、いつか何かのために記録しておきたい、とかそんな感覚。
 例えばドキュメンタリー番組のように、起こりえないトラブルの瞬間こそ撮りたいと思うというか…そういう、僕の言葉で選ぶと「創作に取り憑かれた人間の変態性」のような。そういう感覚がずーっと、作家を目指していた頃から今でもずっと、僕の中にはある。

 記憶というのは素晴らしいもので。使わないものや持っていたくないもの、不要だと思うものから時には必要なものまで、自動的に処理されて、失くなったり、都合よく書き換えられちゃったりする。
 たしか祖母の葬儀の時、僕は幼くて、すっかり飽きていて、お坊さんがお経を読み終えた瞬間に「終わったー!?」と声を上げて、一同を沸かせたというエピソードがあって。それはもう、僕の記憶には完全に残っていないはずなんだけれど、何度か家族から「そんなことがあったよ」と話を聞かされて、今ではなんとなく、その時の風景を思い出せちゃったりして。

 事実、というのは本当はひとつしか無いんだけれど、現実というのはその瞬間に形を失くしてしまうもので、記憶から裏付けられる過去なんて、もはや存在するのかしないのか、したはずだけれど消えたのか、なかったはずなのにあったのか、なんとも脆いモノなのかなあって、思う。
 じゃあ自分が信じている確かなものっていうのは、実はナニモノとも言えない「今」でしかないというか、この瞬間だけで成立している幻想のようなもの、なんじゃないかな、と思う。

 いわゆる「感覚」という、なんとも表現しきれないモノ。
 今までの人生で得た諸々とかがずーっと繋がって結びついて辿り着いているはずの「今」なんだけれど、その糸を手繰り寄せようとしたら、本当はいろんなところが絡まっていて、ともすれば何ヶ所も途切れては強引に結び直されているように思えて。
 信じている、自分の持っているすべてに、自信がなくなることが多々ある。

 けれど僕は、その厄介な性質を、やっぱり大切に思っている。
 昨日まで正解だったものが、今日は間違いかも知れない。さっきまで大嫌いだったものが、今ちょっと好きになっているかも知れない。
 過去を振り返れば「そうだったはず」のことも、今この瞬間から考え直したら「そうではなかった」かも知れない。

 じゃあ、今まで積み重ねて、築き上げてきたものが、この瞬間に意味を成さなくなってしまったら。信じてきたものが「やっぱり違った」りしたら。
 …嫌だなあ。とんでもなく、恐ろしい。
 けれど、そこに真正面から向き合わないと、全力で疑っては考え直してみないと、もっと先の未来をつくれないと思っていて。
 そして、向き合って疑える「そうだったはず」のモノも、丁寧にいつまでも生き続けるヌカ床みたいにしておかないと、腐ってしまったらお終いで。

 何度も自分を信じては、信じた過去を疑って、導き出した自分を積み重ねては崩して、築き上げたら立て直して、もっと新しい自分がつくれると信じられること。
 これが、僕のやり方かなと、思ってる。

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