『粕谷幸司の自由なコラム』01
僕は、暗い。
声質はわりと高めで、張るとピーンと通るタイプで、話題も楽しいもの・笑えるもの・面白いものが好きだし、そもそもアルビノで髪や肌が白いから、見た目の印象も明るい。
でも、性格は、けっこう暗い。
人生を楽しく過ごすヒントとして、ポジティブになる!って、よく聞いたり言ったりするけれど。そんなもの、正直信じられない、と思う。いや、ポジティブな人、というのは存在するとは思うけれど、ネガティブな人が“ポジティブになる”だなんてそんな、難しくね?と、思う。…少なくとも、ある程度考え方とかが出来上がったイイ歳になってからは、ちょっと、無理なんじゃない?と、思う。
そんでもって僕は、表現者として、そんな暗い自分も嫌いじゃないって思ってるから、よく人から面倒臭がられるし、ある時は「生きづらそう」って心配までされたりもする。だけれども、やっぱり、ポジティブになろう!ってのは無理だと思ってるし、ならない自分が嫌いじゃないんだから、厄介だけれど大好きだ。
とても卑屈かも知れないけれど、僕は、どこか人の持っている“理想通りに行かない現実へのモヤモヤ”が、表現にとってのエサだとすら思っている。
恋愛について考えている時だって、とんでもないコンプレックスがあったり、失恋経験を持っていたり、あるいは普通すぎて何でもないという虚しさのようなものがあった方が、モノづくりには前向きになれるというか、振り幅がデカくなって、大いに暴れられる、ねじれる表現行動に進めるような気がしている。
大学の卒業制作で、僕は自分を大きく投影した“アルビノの青年が主人公の映画シナリオ”を書いた。
誰にも言わずに溜め込んでいた本当の声とか、誰かに言ってみたものの全然わかってもらえなかった思いとか、そして多くの人が共感しそうなテーマとなる言葉とか、そういうのをあざとくも素直にぶつけたそのシナリオは、教授から質問こそあったものの、特にダメ出しということもなく、なんかの賞みたいのをもらって、完成した。ネガティブをこじらせて生み出したハッピーエンドの物語は、今でも実は、不格好だけど愛してる。
暗くて良いこと、ってのはなかなか思いつかないけれど。しいて言うなら表現者にとっては、闇を知らなければ光の美しさを描けないんじゃないか?って、思ったりもする。
だからといって進んで失敗したり絶望したり、死にたいくらい悲しい・虚しい思いをするのは嫌だけれど。けれどそういう暗さを知ってるからこそ、多くの人が抱える弱さに寄り添えて、多くの人が求める輝きを見つけ出したり、創り出せたり、一緒になって愛したり出来るんじゃないかなって、思うんだ。
はじめから完成しているパズルを見ても、妙な模様の絵にしか見えないみたいに。
けれど自分で苦労して、嫌になって、でもやめられなくて、続けて、少し面白さが芽生えた頃に完成した、そんな“感動”があってこそ眺めるパズルは愛しく、何よりも素晴らしく思えるみたいに。
絶対、面倒臭いんだけど。僕にとってはネガティブが表現に結びついてるところがあって。病んでる時こそ生きたい衝動を感じる気がするし。モテないからこそモテたい意思が僕を強くするし。苦しいからこそ楽しさを必死で求めている自分を、知っている。
大好きなヒーローは、何度も負ける。
負けて、何度も立ち上がる。
負けなしの最強ヒーローになんて、僕はなれない。
暗いからこそ、明るさを求められるんだ。
…そんなふうに思えたら、僕はちょっと、ポジティブだけど。
そういう裏っ返しの明るさってのも、あるんじゃないかな、って思ってる。