『粕谷幸司の自由なコラム』08
例えば世界平和が実現したとしても、すべてがすべての人の思い通りになるわけじゃない。
例えば夢が叶わないこと、例えば人が死んでいくこと。
僕らが生まれた昭和という時代には、まだ「戦後」のような言葉を意識しないで使っているような風潮があった気がする。
あのころには、まだ「戦争を知っている人たち」が多く生きていて、正月や盆に顔を合わせると、なにかと面倒な話をたくさん聞かせてくれた。
日本が終戦してから、今年で70年。1945年に10歳だった方も、もう80歳。
彼らは今この時代を、どのように眺めているのだろうか。
相変わらず世界のどこかでは戦争やテロがおこなわれていて、ふと国内に目をやっても、決して命を大切に生きている人ばかりではなく、犯罪があり、憎しみや苦しみも、穏やかだからこそ生まれる狂気のようなものも間違いなく在って。
今この時代は、70年間でどのように積み上げられてきたのだろうか。
彼らが望んだ未来は、本当にここに実現しているのだろうか。
高度経済成長期と呼ばれたその時代に、僕らは何を求めていたのだろうか。
復活、だったかも知れない。誕生、だったかも知れない。
時代は“明日へ”という不可逆な時間の積み重ねで刻まれていく。
ボロボロになった者が夢見た「明日」を、彼らが積み重ねた未来を、今、僕たちが生きている。
その時代に求めるモノとは、多分その世界を生きている人々によって様々なんだ。
「生きていたい」と願う時代には、生きられないような現実があった。
「変わりたい」と願う時代には、変わることの出来ない現実があった。
今、僕たちの願いが息づくこの時代には、どんな現実があるんだろう。
制度だとかうんぬんは、ひとまず置いておいて。この世界(現代日本)では、そう簡単には死なない。
本当に死にそうな時には、何かに頼って生き延びることが許されている。
その規模やなんかは置いておいて、この世界ではどんな夢でも、叶えるために走ることが出来る。
誰が見たって叶わない夢だとしても、それを追い求めるのを止めることもない。
…今、この「小さな世界」には、気付けば「小さな平和」が存在している。
そう、僕らは実は、平和の中に生きている。
そんなに簡単に人を殺すことは無いし、そんなに簡単に人に殺されてはならない。
ここにある平和を、時代の中で積み上げられた世界を、また好きになってみても、良いのかも。
世界が少しでも平和であるのなら、人が求める「衝動」とは一体、どこにあるだろうか。
頭がおかしいクソみたいな人間は、その身を自ら悪に染め、己が悪として生きることを選ぶ。
そんな事件を伝えるニュースばかりが溢れていて、今日も僕は、すっかり病んでいる。
僕は、本当の世界平和が見たい。
僕が、エンターテイメントでつくりだす世界平和を見てみたい。
芽生える心の悪や狂気は、テレビドラマや映画で消化する「フィクション」であればいい。
人が幸せで、まさに個人の平和を手にして心豊かに暮らしていける世界のひとつに、エンターテイメントという要素が大いに必要なんじゃないかと思う。
もっと刺激的なエンターテイメントを、もっとありえないフィクションを、そして時々、忘れられない過去という現実を。
僕らはひとつひとつ、楽しんで、平和を手にして、生きていければ良いんじゃないかな。
僕の夢が、叶うかどうかは知ったことじゃない。
ただ僕は、この世界に夢を抱いて、生きている。
…今回は異常に重たいな(笑)。
次回こそは、シモネタにでもしよう。
誰も傷つかないような、しょーもないエンターテイメントを。