笑顔を持ってる人が笑う

『粕谷幸司の自由なコラム』06

 どこかで話題になっていたけれど。
 今の子どもたちに「電話の絵を描いて」って言うと、iPhoneとかスマートフォンを描くんだって。
 昭和生まれの僕たちは、実際にはほとんど見たことがなくても、自然と“黒電話”を連想することが多いような気がする。
 平成生まれでも、今の20代とか、10代後半なら…、プッシュホンというか、数字のボタンの付いてる“固定電話”を連想する人も少なくないんじゃないかな。
 しかし、時代は変わる。
 今を生きる人には、黒電話なんてもはや存在がファンタジー。
 それに対して「電話といえば黒電話(の形)だろう」と言ったところで、無理な話。

 テレビが主要メディアになったからか、集合住宅が多くなって隣人との距離が“壁一枚”になったからか、はたまた、色んな文化的なことなのか。
 実は現代人って、大声をあげて笑うことって、少しファンタジーになってたりしない?
 実際に僕も、これまでの記憶の中で、大声で笑って「うるさい」と怒られた経験がある。
 いやあ、そりゃあTPOってのはあるよね。授業中や仕事中にゲラゲラ笑ってたら、イカン。
 でも今って…、公園ですら、大声で笑ってたら誰かに怒られそうな気がする。
 たまに、居酒屋ですら、大きな声で楽しんでると、怒られるような気がする。

 舞台をつくる時、舞台に立つ時、僕はこの「現代の笑い方」みたいなものを、意識することが多い。
 内容が面白くても、空気感というか、その“笑いどころ”の一歩手前に“笑う準備スペース”が必要だなって思う。さらには、そこの一歩後に“笑って良いスペース”も用意してたりしてね。
 場内大爆笑…みたいな空間がファンタジー、みたいに感じる人も少なくない、現代。
 でも、そんな空間が存在することをなんとなく知ってる、僕ら。
 知ってるけれど見たことない、やったことない、それを実現させる、もはやエンタメそのものがファンタジーか…?

 だから、僕は“楽しさ・面白さ”の中でも特に“笑えるか”にこだわるのかも知れない。
 現代だからこそ、あるいは未来にこそ、声を出して笑える世界をつくりたいと思うし、そんな世界に生きていたい。

 …そう、そんな世界をつくりたいからこそ、僕は、そんな世界に生きていたい。
 僕が笑い方を忘れてしまったら、僕が誰かの笑顔をつくれる自信がない。
 僕が楽しさを枯らして、面白さを見失って、からっぽうになってしまったら、あなたに笑顔を届けられない。
 僕が大声で笑って、話して、生きてさ。
 「これが大爆笑ってやつなんだぜ!」っていう表現、していたいのね。

 でもね、ちょっと“生活”ってやつに疲れてたりすると、大きな声で笑うことも少なくなりがち。
 たまに、ひとり部屋でテレビ見てて「ぶははっ!」って笑って、キン…って部屋に響いた自分の声に、びっくりしちゃったりしてね。
 笑い方は、笑わないように生きてると、忘れちゃうんだよ。

 だからねえ、僕はいつも、なるべく、必死に、笑いをかき集めていたりする。
 そして、周りを見回して、笑顔が見当たらなくなると、僕も笑えなくなっちゃって、落ち込んだりする。
 消えかけているロウソクの火を、慌てて掌で囲むように。
 真っ暗に飲み込まれてしまわないように。
 笑い方を忘れないように、笑える世界をいつも、追い求めている。

 笑顔を持ってる人が笑う。笑い方を知ってる人が笑える。
 自分が笑っていられるからこそ、みんなを笑顔にできる。
 誰かを笑顔にしたいと思ったら、自分こそが笑顔になる。

 だから口癖みたいに僕は…「なんか面白いことねーかな」って、いつも言ってる(笑)。

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