『粕谷幸司の自由なコラム』04
そこまで深い考えはもちろん無かったけれど。
幼稚園のころのお遊戯会で、最初と最後に2ヶ所、いわば物語の「フリ」と「オチ」だけを言う役をやった時。おもいっきり間違えて、登場と同時に「オチ」の台詞を言ったら、会場が大爆笑になって、すごく恥ずかしかった。わりとその時、本気で「もう人前に出るの嫌だ」と思った気がする。
それでも僕は、やっぱりどこにいても目立つ存在で、何もしていなくても話しかけられたり、そうでなくてもたくさんの視線を感じることが多かった。
すっごく恥ずかしくて、すぐ顔が赤くなるし、緊張するし。あんまり、得意じゃない。
…でも、なんでだろうな。ずっとテレビが大好きで。どこかでずっと「一緒に出たいなー」と思ってた。教育テレビの、子供が料理する番組とか見ながら、一緒になって料理したり。子供が主人公のドラマとか、そういうのにはすっかり感情移入して、世界に入って楽しんでいたりした。
そうだ、今、言葉にしてみると「物語の登場人物になりたい」。そんな感情。
小学生のころ。ごっこ遊びが大好きで、アニメのキャラクターを友達と分けて遊んでた。
じきに児童小説とかを読むようになって、頭の中で物語の登場人物たちと一緒に遊んでた。
気付けば自分で世界を想像したりし始めて、物語を話したり書いたりして、遊んでた。
物を書けることって、けっこう重宝されるというか、それもひとつの技能で。周りから「面白いね」「上手だね」「すごいね」って、おだてられるままに(笑)どんどん書くことが増えていって。
しかもそれは僕の場合“いくつもの自分の投影”になっていることが多いから、いわばシナリオを書いてる時は、あのころの“ごっこ遊び”の楽しさで、気持ち良くなってたりする。
つくった人物になりきって、物語の中で生きて、ごっこ遊びのように楽しんで、それが僕の「書いた物」という作品になって。
…そういう面白さを知っているから、まだまだ、書いている。
中澤さんや平居さんは、たぶん僕よりちゃんと「プロ」なので。こういう“楽しみ方”っていう言葉だけじゃダメだということを知っているんだとは思うんだけれど。
彼らのように、役者のプロを僕が名乗らないのは、僕は似たような感覚を持って、似たような表現に挑んでいても、どこか…“役者ごっこ”をしているような気持ちだから。
そう、僕はきっと、演じているのではなくて“なりきっている”ような表現ばかりをする。だから、プロとして融通がきかないというか、上手くないし、上手くなれたら楽しいなーとは思っているけれど、上手くなることに全身全霊で挑んでいない、ような気がする。
…ヤバい、怒られそう。
けれどこれが、僕の理想的な生き方だったりもするので、どうか、許してくれないだろうか。
僕は…“自分ごっこ”をして、人生を楽しんでみたい。
アルビノごっこをしてる。物書きごっこをしてる。役者ごっこをしてる。エンターテイナーごっこをしてる。
粕谷幸司ごっこをして生きていられたら、この人生すごく楽しい。
いつか、この人生がひとつの物語として完結する。
ハッピーエンドなのか、バッドエンドなのかわからないけれど。
振り返ってみれば滅茶苦茶だったような、でも裏でテーマが通ってて、のらりくらり寄り道もしたけれど、なんだか面白かったな、悪くなかったなーって。
それこそ、最後には形に残っていなくても。もしかしたら、アッという間に忘れ去られるものだとしても。
儚くとも楽しい、まるでエンターテイメントそのもののような、粕谷幸司ごっこ。
2度と無い、自分ごっこ。
それを楽しんでいられたら、かなり幸せだなあって、思ってる。